PINK

Saturday, September 30

葡萄の木

以前植えたマスコットグレープの苗もかなり大きく育ってきた。
短いつっかえ棒も使えなくなった。
そこで、ガレージの中を物色していたら、以前、友人から貰い受けた金属製の黒い格子を見つけた。
彼がどこそこのショーで、小さい絵を掛けるために使ったという。
早速、それににつたを這わせた。

朝のジョギングの途中、ある家の前に古いワイン樽がおいてあって、そこに葡萄の木が見事に育っていた。
そして、そこには小さいながらもいくつかの葡萄がなっていた。
数日後にまたそこを通り過ぎると、家の前にワイン作りの機械がおいてある。
どうも、裏庭あたりにたくさんの葡萄の木があるに違いない。
自家製ワインか....いやあ、いいなあ〜と思いながら、通り過ぎた。
で、家のは、とみると、まだまだ、何も実がなってないよん。
先ほど庭へ通じる窓をあけたら、7羽くらいの鳥がさっと飛び立っていった。
あなたたち、実をついばんでいるんじゃないでしょうね!?

Friday, September 29

夜の集まり

夕方からまたスタジオに戻って、クリスマスのオープンハウスと11月のショーの話し合いをした。
クリスマスのオープンハウスはコミュニティーサービスの一貫でもある。
全部のアーティストスタジオを解放して、スタジオの外には食べ物や飲み物を用意し、アート共々、人々に半日を楽しんでもらうというものである。
このアーティストスタジオではもう、かれこれ35年ほど続いている催し物らしい。
とりあえず、私の分担は昨年と同じく、スタジオの建物一帯のデコレーション。
去年は、新聞紙に切り抜きを加えて,色々なパターンを作り、そこにカラースプレーをした。
さらに、それを色々組み合わせて、建物の周りに糸を使って泳がせた。 
すると、それらの紙はリズミカルに風に舞って、なかなか楽しい飾りになった。
今年はもっと違うことをしようと思っている。
でも、お片づけが楽なものがいいなあ。
何にしようかな......。

その後、我々はドイツ人アーティストのインガとムースのスタジオへと足を運び、芸術作品の評論会が始まった。
テクニックのことは別にして、作品への評論はあまり好きではないので、来月から少しスキップしようと思っている。
 
やがてそれも終わり、ぐったり疲れた体で運転して交差点にさしかかった。
すると、そこには信号がクリスマスの飾りのように輝き、あちらの空では小さなお月様が光っていた。
その細いお月様を見ていたら、何だか懐かしいような気分になって、少し疲れが軽くなった。
もうすぐハロウィーン、そして、サンクスギビングとクリスマス....1年ってこんな短かったかしら??

Thursday, September 28

郷にいらば郷に従え

友人を待って、お気に入りのカフェにいる。ここではインターネットのアクセスもできるので、その間、ちょっと考えたことを書き殴ってみる。

異なる国に住む場合、日本の常識を持って物事を図ると落胆させられることが多いことを、過去の経験から知った。

例えば、ある会社の、その日いるべき担当の人が不在の場合、日本と違って、他の人がカバーしてくれることなどほとんどない。
”あ〜ジョンは休んでます。あ〜、彼じゃないからわからないです。”ってな感じで、“誠に申し訳ありません。ただちに担当の者と連絡を取って云々”なんていわれるわけがない。
しかも、”幾日の午後1時から5時の間に伺います。”といっておきながら、姿を表さず、5時になって、今日は都合が悪くなった、とか。
日本のサービスに慣れていた私は、これで何度、落胆したことか。

それから、病院では、医者の専門ははっきり分かれていて、専門意外のことは、結構知らない事が多い。
自分の方がよっぽど基礎的な知識を知ってたりして.....
確かに日本では、私たちは、メディアを通して、健康に関する情報と常日頃から接している。
日本では気がつかなかったけれど、知らない間に”門前の小僧習わぬ経を読む”ことになっているのかもしれない。
ところが、反対にその専門に関しては飛び抜けて優れた医師がいるのも確か。

メールを送るからとか電話するから、といっても80%はしてこない。
それはむしろ呈のいいことわりだったりする。
最初は皆がある種の記憶喪失に陥っているのかと疑ったこともある。
さんざん非難されている、日本の”記憶教育”だってまんざら捨てたものじゃないと思ったくらいだ。
いや、実際、ものを記憶することって大切だと思う。 
だって、こちらにいると皆記憶がしっかりしてないんだもの。
おいおい、テレビの見過ぎじゃないの? 
平均5〜6時間みるそうではありませんか? 
ある科学者によると、テレビやゲームを長時間見たり、やったりしている脳波ってアルツハイマーの脳波に酷似しているってことですよ。こわ〜い。

さて、お店に行くとレジの人は、長い列が目の前にあっても、のんびりマイペースで、おかまいなしに包んだり、接待中の客に話しかけたりしている。
そこで、待っている、友人と私は、足をピタピタと床に打ち付けながら、”私たち二人で、これだけなんかすぐさばけるわよねえ。
代わってやろうかしら,ムムム。”といらいらしているのである。
ところがカフェとなると、結構効率的だからおもしろい。ま、一つ売っても数ドルの世界だから、頑張らないとあかんとよね。うん。

さて、ところがところが、”本当にできる人”というのは、やはり時間は守る、律儀に返事は帰ってくる、ものはしっかり覚えている、手さばきも良い。と結局ここら辺は万国共通なのである。

Wednesday, September 27

未確認物体

スタジオの入り口の白いテーブルの上に薄緑の物体が3個ほど、ころころと置いてあった。 
大きなものになると直径4、5センチはありそうで、まわりに柔らかなトゲトゲがくっついている。
スタジオメートのラバーヌが私のために庭から取って来てくれたらしい。
”おもしろい!”とカメラでカシャリ。で、この中味というのが下の写真。

その晩、この物体で遊んでいたら、頭に色々なイメージが浮かんできた。

1:自分がミニチュアになって、この物体の中をIsolation tankにして、考えにふけったりする。
そして、それぞれのtankは糸電話でつながっているので、孤独にあきたら他のtankの人とそれでお喋りする。
これは、劇の中でも使えるかもしれない。あるいはビナ.バウシュのような前衛的舞踏とか......
2:このふわふわ形の実物大のベッドを作って時々お昼寝する。
3:あるギャラリーで、この植物を大きくしたようなもの(柔らかいもの)を床のあちこちに置き、見に来たお客さまにその居心地の良さを味わってもらう。 ネーミングはなにかヒーリングに関係するようなもの。等々。

自然界のものって、言葉無しにさまざまなことを、私に語りかけてくる。

Tuesday, September 26

なつかしの小樽

夏が過ぎて、涼風さわやかな秋になると、夏の思い出がとても鮮やかに浮かんで来る。
今回の夏の北海道旅行は、年齢様々な5人のグループで行ったため、興味の対象と、体力の差が異なり、その平均値をとったいわゆる普通の旅行。
でもその間、普段離れている両親とは、いっぱい話したり、笑ったりすることができたし、仲良し同士のとても楽しい旅であった。

行った都市は函館と小樽と札幌である。
その中で、特に小樽には、もう少し長く滞在したかった思いがある。
古いしっとりした町並みが残されている場所があり、通り沿いに魅力的な木造建築があちこちに見られる。
ガラスに興味があるので、北一硝子は最初に行きたいところだったのだが、そこはたった一軒の店ではなく、通りのあちこちにいくつかの建物があって、驚いた。
タクシーの運転手さんにとりあえず一番大きな建物に止めてくださいね。と頼んで、到着。
建物は古くて、味わいがあり、そこにたくさんの硝子製品が並んでいる。
特に切り子の美しい色使いには溜め息をついた。
そうやって、上の階で、素晴らしい製品をみてしまうと、いかにもお土産用に作られた硝子製品に目がいかなくなったりする。
切り子が大好きで、一時、色々な切り子を集めていたが、新しい土地に移るたびに友人に少しづつプレゼントしてしまって、今は残っていない。
でも、切り子は夢があって大好きだ。
以前江戸切り子を作っている職人さんの姿を見ていたけど、その真剣なまなざしはとても美しかった。
店内にあった、硝子のランプがあちこちに並べられているカフェの作りもおもしろい。
でも最終的には建築の方に興味が移ってしまって、肝心のグラスを買うのをすっかり忘れてしまった。
小樽を出て、札幌行きの電車にのった時、初めて、父が購入した切り子のグラスを見て、思い出した私である。
「あ〜買っとけばよかった。 どうして、誰も言ってくれなかったのかしら。 もう二度と来れないかもしれないのに!」と悔しがる自分であったが、人ごみの中に途中から消えてしまってどこに居たのかわからなかったとのこと。
私、何をぼんやりしてたんだろう。

後日、妹のパートナーが、私が好きそうな場所として、九州の’コバヤシ’という場所の話をしてくれた。
そこには、たくさんの蛍を育てている人がいて、その方のご厚意により時々、その蛍ファームが一般に人々に解放されるらしい。
その真夏の夜には何万という蛍でその森が照らしだされて、動めく壮大な光の帯となるそうである。
その情景は、それを見るためだけでも、生きている甲斐があったと思うほどの感動を味わうらしい。
北海道にもそんな感動を起こさせる所があるに違いない。
次回はそのような場所にも足を運びたいものである。

Monday, September 25

アレルギーを起こさない猫

猫アレルギーにならないように改良された、新種の猫がアメリカで売り出された模様であります。世界初だということです。
ちなみにお値段はめっぽうお高くて、一匹3950ドル!
ここにいるのがその猫ちゃん達です。

詳しい記事はBBCニュースより。

それにしても、猫ちゃんの品種改良より、アレルギーにならないような食生活や、自分達をとりまく環境作りに気をつけたいものです。 
最近アレルギーを持った人々が非常に多い事にびっくりさせられます。
その数も年々増えていくような気もします。
とするとアレルギーって比較的近代の産物ではありませんか?

以前、友人がデートの相手を初めて自宅に招待したところ、玄関を入った途端に彼がひどいくしゃみをし始めたそうです。
しかも、目は真っ赤で苦しそう。
結局、せっかく用意したディナーも食べずに脱兎のごとく帰っていったとのこと。
そして、その後、彼は二度と姿を現さなかったという事です。

『残念! 愛猫にデートをはばまれたわ!』と彼女。
買ってあった美味しいシャンペンも、作っておいたディナーも2日かけて全部自分で平らげてしまったとのこと。

彼は彼女の飼い猫に強いアレルギー反応を起こしたわけですが、猫アレルギーも相当ひどい場合があるそうです。
ところで、猫アレルギーって昔からあったのかしら?

Saturday, September 23

ホットヨガ

今年はショーの谷間の短期間に日本に帰国した。
その間、心優しい日本の身内は、北海道と那須高原への旅行、2つをはりきって入れてしまったので、実家にはわずかしか滞在できなかった。
とりあえず、両親含めての旅行だったので、親孝行(?)の時間はたっぷりとれたものの、友人とはあまり会えなかった。
これでは、私の存在は年々友人の心から消え去っていくのではないかと心配するほどである。
「あれ? Mって誰?」なんていわれてたりして。 
去るもの日々に疎し...とはよく言ったものである。
私だって、こちらの友人に1ヶ月会わないだけで,自分にどんな友人がいたか忘れたりするし。
遠距離恋愛も遠距離友情もお互い、相当努力しないとむずかしいということですね。 ふむ、ふむ。


ところで、その帰国の際、我が身内の女性とホットヨガなるものを体験してきた。
ホットヨガはアメリカからきたという事だが、世の中から切り離れて庵を結んでいる私は、そんな情報全然知らずじまい。
イタリア製のお水を2本ほど購入して、1時間ほどのヨガの間、インストラクターが”はい、お水飲んでください。”っていうたびに飲む。 
その感想を一言でいえば、”ひ〜、あつい!!!”だった。
つまり、サウナでヨガをやっているようなものである。
もう、意識が朦朧として、脳がとけてしまいそうだった。
”もう、だ、だめ..."と、うなる我慢性のない私に、”せっかくきたんだから、頑張って”という身内。
西海岸の、天国のような気候にスポイルされている私は、すでに日本の酷暑にばて気味、なおかつひどい時差ぼけ。
追い打ちかける、さらなる熱に、また真夏のわんちゃん状態。

女性は美しくなるためには、こんな苦しみだって耐えぬいちゃうのね。
でも、苦しみの縦じわの方が増えそうです。

終わった後は、夕方の涼風がお肌にとても気持ちいい。
ぐったり疲れた我々は、つい、近くの店(東急にはいってる喜八ってとこ)でソフトクリーム食べて、痩せる目的が...全然だめですね。これは私にはあってませんです。

Friday, September 22

春菊

今、カリフォルニアでは生のほうれん草を食べて病気になった人々のことが問題になっている。
亡くなった方も一人いらっしゃる。
どうも、モントレー近くのサリナスの辺りからくるほうれん草のようだ。 
目下、原因不明。 

うーん、ほうれん草好きな私にとってはちょっとつらい出来事だ。
で、とりあえず、なにか代理を見つけようと、夕方、Nijiya (Mountain Viewにある日本食料品店)に行って、お野菜を物色。
春菊を大量に買ってきた。
さっと茹でて、お醤油とごま油をたらりとたらし、ニンニクの薄切りを加えて、手で混ぜ合わせて出来上がりの簡単なもの。
お野菜をシンプルに食べるのって美味しい。

でも、実はこの写真の3倍くらいは食べたわねえ。
"はらぺこあおむし" も真っ青ってとこね。

Thursday, September 21

愛車

海を見つめる私の愛車......

朝一番でスタジオ仲間のラバーヌからメールが入った。
”元気? 数日見ないので淋しいと思っているのよ。 そちらに何も変わりがないといいんだけど。”

実は先日、車をサービスに出した。
普通は朝だせば夕方には仕上がる。
なのに、今回は、今までになく時間がかかり、これで3日もたっている。
だからスタジオに行かれない。
家のダイニングルームの大テーブルの上に絵の具等を散らかして、コミッションの絵を必死で仕上げている。

フォルクスワーゲンの会社から、電話がかかってきて、ブレーキとトランスミッション、およびどこそこのホースを取り替えることになって、多分修理費が1000ドルから2000ドルかかるだろうという。
”キャー!!”と悲鳴。

確か6ヶ月前も、サービスで700ドル払ったことを思い出した。
何なのだ、このお金食い車は。
9年もたつと車ってこんなに費用がかかるのかしら。

アメリカでは車は必需品である。
ドライバーズライセンスはアイデンティティーカードとしてしょっちゅう使わなくてはならないので、来てすぐに運転免許をとることは必至。
1997年に上陸して、免許を取ったものの、実際に車を運転するのはいやでいやで、しばらくは徒歩の生活をしていた。
でもそうもいかなくなって、自分用の車を買う事に。
車にあんまり興味がないので、動けば何でもいいと最初は思っていた。
ところが、ある日、フォルクスワーゲンの店の前を通ると.....なんとそこには、可愛い赤い小さな車が窓越しにこっちを見ているではないか。 
赤い、おとぼけハンドバックみたいな顔して。
今まで、まったく車に興味のなかった私が、突然、一目ぼれしてしまった。
その時の私を漫画でたとえたら、興奮して足が8本くらいに増えた人のイメージ。
それが、その年にでたばかりのニュービートルの赤。
運命的な出会い!(勝手に想像)
それで、ついに購入した。

フォルクスワーゲン、すなわち人々の車、つまり、大衆車ってとこかな?
何年も頑固にデザインを変えない。ここでは日本車より安いし、親しみやすい”顔”してる。
赤だから、アメリカの巨大な駐車場では、遠くからでもすぐ見つけられるし、小さいから自分の体のサイズにぴったりだ。
おまけに細い花瓶なんかついていて、そこに最初は生花、でもすぐ枯れるので、本物そっくりな白い薔薇一輪、さしたりして、
乙女心が大満足。

出始めの頃は、よくニュービートル同士ですれ違うと、あっちのお兄さんなんか、”よ、兄妹!”てな感じで、うれしそうに手を振ってきた。
今は運転してると、もう春のてんとう虫みたいにどこでも様々な色彩のがうろちょろしてるし、中には本物のてんとう虫のように黒い点々をつけているのもある。もっと傑作なのは緑色のビートルがかえるに変身しているもの。
大きなかえる目玉まで車のてっぺんにつけてるんだもの。 
いや〜ん、もう早く走って向うの車線まで逃げちゃおう、一緒にくっついて走りたくない。

思えば9年間よく働いてくれました。
大きなキャンバスを入れたり、出したり、それでキャンバスからの絵の具があちこちにくっついたり。
あっちのギャラリー、こっちのギャラリーと道を何度も間違えたりして不安も共有。
そのうち、部品がおもちゃのように取れても、(何故か、内部のボタンとかがすぐ取れたりする)、なおかつ大好きなこの車。

愛は貫きます〜。 乗りつぶしちゃいます。
ということで、仕方なく修理費を払い続けることになりそう...とほほ。

Tuesday, September 19

グランドキャニオン


もう一度、グランドキャニオンの上空を飛んでみたい。
信じがたい自然の造形。
前回は怖くて、時々、目をつむっていたけど、今度こそ全てをしっかり見るようにしなくちゃ。
それから、人なつこいリスにも会いたい。

そして、そして、夕焼けの美しさときたら....

Thursday, September 14

孤独について

ちなみに私の孤独は丁度、猫型をしていて、あのふわふわした毛皮をクッションにして、我が心のほこらにすっぽりおさまるくらいの大きさではある。

孤独ということを考えたとき、人々は何故かおそろしいような、ネガティブなイメージを浮かべるけれど、
私がここでいう孤独というのはそれとは逆の観点からの場合をいっている。


人間は孤独であると思う。
たった一人で勇敢にも母の体内から裸で出て来る。
そして、死ぬときだって、結局勇敢にも一人で死んで行く。

この自然から与えられた問いって何だろう。
それは、まさに人間は、小さな独立した島のように孤独であるべきだということではないか。
孤独を認めて初めて、しっかり人生を生きていけるのだといわれているのではないか。
孤独を認めて初めて、豊かな友情、と深い愛の素晴らしさを知るのではないのか。

人にとって、孤独な時間はとても大切だと思う。
空想の花にお水をやり、心の内部を潤す時間。

そんなことを考えて、朝、本箱を整理してたら、棚からコトンと落ちた本があった。
ずっと以前、物書きの友人からひっそりプレゼントされたものだ。

アン、モロウ、リンドバーグ(Anne Morow Lindbergh)が書いた”海からの贈りもの”である。
その中にこんな一節があって、床に座り込んで読みふけってしまった。

”つめた貝はカタツムリのような形をしていて、丸くて艶があり、西洋橡の実によくにている。
丸くなった猫のように、私の手のへこみに沿って居心地よさそうにこじんまりとおさまっている。
不透明な乳白色で、ひと雨きそうな夏の夕暮れの空のように薄いピンクを帯びている。
その滑らかな表面に刻まれた線は、ようやく見極めることができるほどの貝の中心、
目でいうなら瞳孔に当たる黒く小さな頂点に向かって、完全な螺旋を描いている。
このひとつだけのミステリアスな目は、わたしをじっと見つめ、わたしもこの目を見つめ返している。
その目は時に、中空に輝く孤独な満月にも、夜の茂みの中を音も立てずによぎっていく猫の目のようにも見える。
あるいは、輪を描いて除々に広がっていく波に取り囲まれた島にも見える。
そこにそうして在るだけで、充分に自己充実した島のように。
島はなんと素晴らしい存在だろう。”

Fundraising

教育費が大幅にカットされているカリフォルニアではPTAの役員が基金集めに必死になっている。
そうやって集められた資金は、例えば、5th Grade(9月が新学期なので、日本より6ヶ月早い5年生)の生徒のScience Tripとかバイオリンやチェロ等の音楽レッスンの費用に使われたりするわけである。

というわけで、やっぱり、今年も11月のオークションのために絵を寄付してもらえないかというメールが入っていた。小さなものでいいといわれるんだけど、普段大きなキャンバスが主だからなかなか見つからない。
2、3日ウームと考えたあげく、渋々、最近仕上げたばかりの小型の絵を寄付することに決心した。
結構自分で気に入っているので、キッチンのモーニングヌックの所に掛けてあるのだ。

それにしても、ここにいると、”寄付を、寄付を”とあらゆる方面からの手紙、電話、メール攻勢がすごい。
しかもかなり強引。
警察からの寄付金願いの電話だって、ある時期なんか、2日に一回くらいなんだもの。(電話の記録によると)
警察にそういう基金集めの係がいるんでしょうね。
ところで、そのお金、いったい、なあにに使ってるんだろうなあ〜〜???

”寄付金はわかる。私も色々な方面にできる限り寄付しました。
でもなんだか自分が稼ぐよりも取られて行く感じ。
寄付金を欲しいのは実はこの私ですよ!!”

友人の前で、私は無惨にも鳥についばまれる死体の振りをしました。

で、今キッチンに掛けてあるこの絵に向かって、私はさよならをいいました。
良い思い出のある絵は、本当に愛してくれる人にしかあげたくないなあ....

と考えていたら、またまた、甘い物が食べたくなった。
今日はプリンでも作ろうっと。

自己表現

少年がデッサンに興味を抱き始めた。
彼は目の前にあるペットボトルを描いた。

少年には小さなノートと鉛筆を与え、いつも持ち歩いて、どこかで何かしらを描くよう薦めた。
自分の頭の中にある物の”イメージ”ではなく、実際に自分の目でしっかり、じっくり見るよう、
たとえ、それが妙に思われようと、じ〜っと見て描くよう、
できれば、色々な角度からも描くよう。
時には触ったりしてもみよう。
でも人に触るのは気をつけてねえ。 うふふ。
自己表現の方法ってたくさん持ってた方がいい。
それが楽器でも、絵を描く事でも、文章を書く事でも、それが心の素晴らしい救いになることを私は深く実感している。

夏の疲れ

今になって夏の疲れが襲ってきた。

ふと見ると、もっと無気力なこの子がいましたよ。

ひねもすこんな状態で家からも出ず、足掛け四年。

私もこんな単純に悩みもなく、日々を送りたいもんですなあ。

しかし、今年の夏はきつかった〜。 
頭の片隅に色々な出来事が引っかかっていて、ある意味では小さな事なんだけど集まるとうっとおしいほど心を占領しちゃうってやつ。

7月中旬の事故もその一つ。

私は友人を助手席に乗せて、右折の信号を待っていた。
すると、後ろからばーんと車がぶつかってきた。
それもかなりの勢い。
一瞬何が起きたかわからなくて二人で呆然としてた。 
体は麻痺。
しばらく沈黙していた我々。

”ここって天国?”
ショック状態のまま私は隣の友人に呟いた。
周りが白っぽくなってたし、友人は白い服来てたし、
何か体と心が一瞬、遊離した感じだったし。

そのぶつけた本人は私の前方に車を止めて、真っ先に自分の車の前部を丹念にチェックしていた。

窓越しに見える彼女の姿を、私はスクリーンの映像のように、だら〜と見てた。

そして、その後の彼女の態度はまるで事務的で、おまけに私は何も悪い事してませんってな態度。

だけど、それってとんでもない事だ! 
私なら駆けつけて、大丈夫ですか?って絶対に聞く! 
明らかに自分のミスならちゃんと謝る!
アメリカだから、日本だからってんじゃなくて、人間として当たり前でしょ。

って後になって憤慨したのは、一ヶ月くらいたってからだから私もかなり鈍感。

でもこの女性の一件が私の心に夏中、影を落としたのは確か。
なんというか、人の良心を信じたい自分の気持ちが無惨に裏切られたような悲しい気分..... 
事故はある意味仕方ないにしても、自分からぶつかっておいて、自分の車のことを人の命より大切にしているようなその人間性。

幸い、二人ともむち打ちにはならなかったけど、愛車の8年ものニュービートルの赤いお尻がへこみ、再び走り出した時には前方のフォグライトが地面に落ちて壊れ、その他にもトランク内部に破損があった。

相手の保険会社は私の車のダメージチェックにやくざっぽい兄ちゃん2人を送って来た。(友人によると大体そんなもんらしい)
エフが外で応対する間、私は鉄のフライパンを持ってニキータのように身を隠し、ガレージ入り口のドアから様子を伺ってた。(何かあったらすぐ出動しなくちゃいけないからね。)
やくざっぽい兄ちゃんたちはさんざんへ理屈のべて、修理にかかる半額くらいしかだせないようなことを言ってさっさと帰っていった。
お尻にぶつけられるのはこれで3度目。
しかも全て信号待ちを後ろからぶつけられた。
そして、みんな運転中に携帯使用。
ちょっと、勘弁してよねえ。 

この件は後ほど決着がついた。
でも私は精神的に非常に痛手をおったぞ。プンスカプン!

ところが、一方で私は固く信じてる。
いつも神様のようなものが私を守っているって。 
だって私の人生には小さな奇跡がいっぱい起きているもの。 
そして、今や私の車は新品のお尻を嬉しそうに振りながら町を走り回っている。
だから潔く忘れよう。

さて、あとは隣との塀問題かな〜。

Wednesday, September 13

海からの贈り物

この夏、カナダの海岸で遊んだCさん。
”あのね、ホテルの前の海辺では、波が引くとあちらまでずっ〜と砂浜になって、今まで海だったところにたくさんの貝殻が落ちていたのよ。
それがすごい印象的でね、 K(Cさんの旦那様)に思わず言ったの。
これって、M(私のこと)が好きそうだね!って。”
そこで2つの箱にいっぱい広がった貝殻をテーブルの上に置いてくれたCさん。
“好きなの選んでもっていってね。”というわけで丁寧に2つ同じ種類のある貝殻の一つ一つを選んで、いただきました。
あ〜、こういうお土産が一番うれしい〜。
胸に響くなあ。

ギリシャ風ピクルス

今年の夏はよく、このギリシャ風ピクルスを作った。
多めに作って、冷蔵庫で冷やしておき、パリパリ食す。
歯触りも気持ちよく、夏にぴったりの新鮮さだった。

小タマネギ、人参、かぶ、セロリ、赤、青、黄色のピーマン、キュウリ、カリフラワー等の野菜を小さめにざくざく切り、それら全部を海水程度の濃さの塩水に30分ほどつけて水気を切って、熱湯をまわしかける。(色のバランスを考えるときれいです。)

赤唐辛子は種を除いて半分に切り、ニンニク(大2片)は薄切りにして、A(サラダ油、大さじ5、オリーブ油大さじ5、酢、2分の1カップ、白ワイン4分の1カップ、粒こしょう、大さじ2分の一)とベイリーフ 1〜2枚、塩(適量)と合わせ混ぜる。
水気を切ったお野菜をこのつけ汁につける。 一時間以上つけ込めば食べられるが、翌日になるとさらに美味しい。

お嬢さん、お嬢さんもっとお野菜食べましょうね。
美しくなりたければお化粧品にお金を使うより、お野菜が一番ですよ。
雰囲気にそれはそれはきれいな透明感がでるんです。
もちろん私は自分のこと棚に上げて話しているんですけどね。

さわやか

朝、走っている。
コースは我が家をでて、緑に包まれた住宅地を抜けてしばらく行くと、道沿いに小さな小川の流れる所にでる。
それをずっと行くと、道が段々狭くなり、突き当たりに大きな公園が見えてくる。
公園のぐるりを回り、小さな丘への舗装されていない坂を上がり、枯れ草を踏みしめて、丘のてっぺんへ。
薄紫の小さな花が辺りに点々としていて、草の匂いがぶ〜んと体を包む。
すると、今度は細い自転車道が真っ直ぐに続いている。 
右側に並ぶ木々の間を、”あの木まで走ったら、あれが叶う”とか“あのゴミ箱までいったらあれは叶わない”とか変な妄想に追われながら、しかし意外に真面目に賭けをしたりして走る。
朝早いので自転車も少ない。
その細い道の上にお日様が私の影をくっきり映しだしている。
たまに犬を連れた人々が歩いている。
大きな犬が前方に見えたら、事前に反対側車線に移って走る。
何故かって、苦手な犬がいたりするから。
ドーベルマンタイプとどうも相性が...(汗)
でもバグなら大好き。
ハイキングする人々の”暗黙の礼儀”に沿って、私は”おはよう”と言っているのだが、皆が皆それに答えるわけでもない。
でも、にこにこしながら、おはよういってくれるお年寄りの人がいたりして、それは心が結構和む。
最近、ロバの牧場の近くの木の橋の上を走っていたら、反対方向から美しい体勢で走っている方がいて、
”グッドモーニング!”と低い浪々とした声で、すれ違っていった。
艶のあるはっきりした声で前向きにいうのって、何か大きな人柄を感じてすごくさわやかだ。
最初は少し勢いに押されて、”グ、グッドモーニング..."と小声で言っていた自分だが、最近は前向きに挨拶するようになった。
でも、あれだけ走っていてよく息切れしないなあと思った。
私は真夏のわんちゃんのように、息づかいが激しくなってしまって、喉はくっついているし、すぐ返事できないですよ。
もう少し、鍛えなくちゃね。

Tuesday, September 12

医者

アメリカに住み始めて、定期的な婦人検診のシステムにしっかり納まってしまった。
4、5ヶ月前に検診の予約をしないとほとんどアポをとるのは無理な状態になる。
検診が終わるたびに、次はいつの予約をとるよう、医者からもいわれる。
だから、日本にいるときと違って、真面目に定期検診を受けている。
それだけ予防医学が発達してるってことは安心でもあるわけだけれど。

幸運なことに人生通じて、今のところ何の問題もない。
しかし、臆病者であるから、医者とか歯医者に行く前は、自分をうんと生意気モードにしないとやってられない。
それで、先日も車の中で景気のいいラティーノUSAを大きなボリュームで聞きながらふんふんと鼻歌まじりの空元気。
ところが、病院につくとやはりどきどき、落ち着かない。
それに、ちょっと寒かったしね。

ところで、もう一年経ったのかい?
一年に一度の検査。 
カーテンなし。
ドクターと目をあわせないように天井見たり、あっちキョロキョロ、こっちキョロキョロ。

いっやだなあ。女性はなんでこんな検査をしなくちゃいけないのかな。

あくまで事務的に、お願いしまっす! ありがとございまっす!...コホン......ってな感じで男の子のように、飄々と診察台を降りた。

そんなこんなで、疲れた私はパントリーで見つけた小豆を水に浸けた。
翌日それは2倍くらいに膨らんだ。
それを長い事煮つめた。

しかも、かなりのお砂糖いれないと甘くならない。
できあがったのは巨大なあずきの山。
きんつば、お汁粉、大福、それからかぼちゃとあずきの料理とか、連日家族に食べさせて、とうとう、皆、あずきアレルギーになってしもた。
あんこはもうたくさん。
今は明石焼が食べたい〜。

男の子の曲がり角

男の子の曲がり角にはクッキー作りがかかせません。(ま、何と短絡的な流れであろうか。)
300グラムの小麦粉とお砂糖150、バター150グラム、そして、卵一個といった案配で、この夏クッキー作りに精をだしたエス。
ほらほら、頑張れ頑張れ〜。
魔法のバニラエッセンスでふ〜んいい匂い。
ついでにパウンドとグラムの変換とオーブンの温度設定でCelsiusとFahrenheitまでちゃっかり教えて得した私である。
C=(F-32)x5÷9...むむむ.....面倒くさい...
私思うんですけど、重さや温度、長さに関しては世界標準化を図っても損にはならないんじゃないかしら。

Monday, September 11

見ること

本質的なことは見ることを学ぶことだ

考えずに見ることを

見ているときに見ることを学ぶことだ

見ているときに考えたり

考えているときに見たりしないで


フェルナンド.ペソア  ”不穏の書”より

札幌らーめん

友人によると、先週末の土日のみ、サンノゼのヤオハンスーパーマーケットにて、札幌の”すみれ”のラーメンが食べられたとの事。しかも、その友人によると、それはかなりおいしいラーメンだとのこと.....しっ、しまった!! 何故それをもっと早く言ってくれなかったのか!
このところ、素晴らしく涼しい日々が続いていて、私は札幌で食べたラーメンのことを懐かしく思い出していたところだったのだ。
ああ.....おいしいラーメンが食べたい。

Saturday, September 9

不思議な種

ある日の午後、私は白いテーブルの上にのっているその種をじっと見つめていた。
焦げ茶の種のひとつひとつに白い羽毛がついていて、つまみ出すとバレリーナの繊細なチュチュのように透明に広がる。
そうして、その種は風に乗って運ばれていくわけで、自然というのはうまい具合にできているものである。